昭和41年06月29日 朝の御理解



 信心しておかげを受けるということ、信心しておかげを受けてくれよと仰る事。これは、きりのないこと深さ広さの点においてはもうきりのないことですけれども、その、いよいよ本当とするところを、私共は頂いてまいらなければならない。信心しておかげを受けて行くという事。信心しておかげを受けてくれよとこう仰るところ。甘木の初代の安武先生が信心生活、信心即生活、生活即信心皆が同じようなことをいうけれども、これは違うばいちいうて仰る。信心即生活、生活即信心。
 いかにも同じようなことにあるけれどもここのところは大変な違いがあるばいというて教えておられたという事です。どういうふうに違うと皆さん思われますか。それはあの分かり易くいうと、例えばお商売の中に信心があるのと、信心の中に商売があるのというわけなんです。大体ほとんどの人が商売の中に信心がある。それを、まあ、信心生活をさせて頂いているように思うのですけれども、それは間違いのように思う。信心の中に、商売がなからなければいけないと仰るのですね。
それはどういうことかというと、また、もちっと具体的にいうと、商売をしておりますからどうぞいっちょ、集金の時やら仕入れの時やらまたは、大売り出しの時やらは神様どうぞよろしゅうお願いいたしますというのが、ね、いわゆるその、神様を従の立場においておるわけなんです。神様を主の立場においていない。商売即信心というのはそれである。信心即ち商売である。というところまで行かないとですね。
 これはまた、具体的なおかげの面で申しますと、もう本当にそういう本当に信心をする、商売、信心即百姓、信心即生活と、生活即信心ではいけんという事が分るんですよ。もう少し具体的にお話をすると、まだ分からないと思うですよね。あれは、ある、会合でした。ある教会の、奥さんも先生もですけれども、戦時中にお野菜がなかなか入手困難ですから、畑を少し借られてから、野菜を作られた。これは、もうそこはお百姓のいうなら、農業の真っ只中にある教会というのですけれども。
 そこの親教会にあたるという先生が、あっちがなあ、本当に、奥さんが、自分が裸足になってから、肥しをあげたり野菜をつくったり、畑にいってあれだけ、一生懸命にならっしゃると、信者が助かるようにという信心修行になられると、野菜をつくらんでもおかげ頂くばってんというお話を聞いた事ある。なるほど、ご信者さん方も大変だ。教会のお野菜まで、いっちょいっちょお供えをされて大変だろう。
 全部教会でも手があいておるのだから、奥さんが自分で手足を挙げられたり自分で野菜を作られれば、それだけ信者さんも楽になられる。これなんかは、本当いうたら私が一番初めにいう、信心しておかげを受けてくれよというおかげを受けておられないわけなんです。野菜を作っておかげを受けてくれということになるですね。そすと。肥しどんあげてからおかげを受けてくれよという事になるのです。信心して、おかげを受けてくれというのはそんなもんじゃない。
 それを、例えば、もう本当に、目の当たりに、やはり感じれれるようになれるところに、信心のきびというのがある、私は先日神様の期待というかそういうところに非常にはっきり神様が現れなさるようなおかげを受ければありがたいと。これも甘木の初代があちらに布教に出られる当時の事に、少しばかり、茄子苗を買われた、そしてなすびを境内に少し植えられた。だんだん、育てていかれる茄子もふとくなってきて、もうやがて花が咲いて、まあ実ろうかというころからぱったりお野菜のお供えがなくなった。
 やはりその信心に敏感でおありになりますから、あれだけのお徳を受けられたのですから、そのことをはっとこの、どうしたことじゃろうかと思われた。そしてその事を神様にお願いなさっておられた時に、おきずけを頂かれたのがです、いわゆる私が今申します、「信心しておかげを受けてくれよと、仰るところを分かられたわけです。」もう茄子を作っておかげを受けようと思うておるがというふうに感じられたんですよ。
 もう早速、やんがてなりつこうとしておる茄子を、みんな引っこ抜いてしまわれたという話が、御伝記に残っておりますよね。もう早速、お野菜が次から次と切れめなしにおかげを受けられたというお話し。これはね、教会、または教会の先生だけに限った先生方の専売特許ではありません。本当に信心しておかげを受けるということはそこなんだ。ですから、例えば原さんでいうならば、ね、洋服を作って生活をすると。いわば、洋服を作っちゃならんじゃない、そういう意味じゃないです。
 ですから、それがいけんのじゃないですよね。だんだんそりゃ、甘木の初代のあたりのように、神様のご期待も大きい。また信心のお徳も、だんだん受けておいでられておられる方ですから、神様もそういうふうに、はっきりと現れなさったのですけれでも、だんだんその、信心しておかげを受けると言うことがです、神様を大売出しの時にだけにつこうておる信者もある。
 集金に行く時だけに神様にお願いをするという信者もある。ただ、売れ行きのことだけを願う、いわば、信者じゃあると。ですから、そげなことだけにはおかげをやらんという神様じゃないけれども、例えば教会ででもですお野菜を作っておられる教会でもやはりおかげを受けられる教会もあろうけれども、信心しておかげを受けてくれよというおかげは、現れないという事。信心してどうぞおかげを受けてくれよと、氏子信心してどうぞおかげを受けてくれよというようなおかげ。
 それがそれを第一にするとか、大事にするとかといったような問題ではない。信心の中に洋服やさんがあるんだということ。信心の中に洋服つくりがあるのだということです。昨日、竹葉会で、本当にもう人数が少なかった。5,6人。けれども一生懸命の信心体験話を、聞かせて頂いてからこげな熱心な、共励ができるならばというて話した事でございますけれども中に佐田さんが話しておりました今、あちらのお母さんが定期券をこうて日参をしておられる。
 ところが先日、今日はお母さんは参らじゃった、今日もう、あんたこれからこれまで、あの草があんまり生えておるけん、とうとうお参りが出来なかったと。あちらの主人の、恭造さんがいわれる、お母さん私は、今度の月並祭に参拝させて頂いてから、一つ自分の心の中に、悟りを開いたち。今日親先生のご理解の中に、例えば、さあ、とりあげたから、田植えだから、といや信心の方も、神様がご承知だから、忙しいこともと思うておったけれどもです。
 朝のお参りがもうすでに、田植えは始まっており始まっておったのだというて、ご理解をくださった。だから、お母さんその草取りも、いわば、その、いわゆるその、自分の屋敷内の草をとるということもですたい、もうそれもですね、お日参りも草取りの中に入っておるのだと。もうお母さん、ここのところが分かったち。いよいよ神様ごとの時にあれやらこれやらと理屈をいわずにあれが今日は急がしかというて、お月次祭にまいられんといことがあっちゃなならん。ね、
 その忙しいこともお月次祭の中にあるのだというふうに思うて、お母さんその、まずお参りさせて頂かなければ、草取りは始められんですよということを主人がもうえらい悟りきった事をいうてからお母さんに話しておられるのを聞いてから、本当に主人が分かっていかれるのがありがたいと言う意味の話をしておられました。ですからそこはもちろんピンからきりまでですよね。けれども、そこんところが私共がです、私共が信心即生活、生活即信心というのが。
 例えば、甘木の親先生がこれは同じ事であるばってん大変違いがあるばいと仰ったところをです分かる気が致しますでしょうが。信心しておかげを受けてくれよというのは、生活即信心ではある。どうぞおかげを受けてくれよと仰るようなおかげは受けられないという事。信心その、信心即生活でなからなければならない。信心そのものが生活でなからなければならないということ。ね。そこにいたって参りますときに、どうぞ信心しておかげを受けてくれよという御教えがある、大変深いものになる。
 深いものになるということはそれだけ深い広い、おかげのうけられる道がそこから開けてくるという思いがそこから致します。私共の生活がですね、生活即信心という程度でなかろうか。それもおかげそれも信心、けれどもだんだん、少しずつ小さいことから、まあ、見易いことからそそこの所の体験を頂いて、なる程、信心即生活とはこんなに違うもんだという開きをです、体験していかなければならんと思うですね。
   どうぞ。